三大財閥
日本を代表する大企業といえば、三菱、三井、住友を挙げる方は数多いのではないでしょうか。これらはかつて三大財閥と呼ばれ、戦前の日本経済の中心で巨大な影響力を持っていたといわれています。今回は三大財閥の歴史について記事にします。
「財閥(ざいばつ)」という語は1900年前後に使われ始めた造語で、当初は同郷の富豪を指したようだが、明治末期には同郷に限らず一般に富豪の一族を意味するようになった。
Wikipedia
今日の学界においては、「財閥とは、家族または同族によって出資された親会社(持株会社)が中核となり、それが支配している諸企業(子会社)に多種の産業を経営させている企業集団であって、大規模な子会社はそれぞれの産業部門において寡占的地位を占める。または、中心的産業の複数部門における寡占企業を傘下に有する家族を頂点とした多角的事業形態」という規定が通説的である。
三菱財閥
三菱財閥はかつて存在した日本の財閥で、現在の三菱グループです。土佐藩出身の岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、明治政府の保護も得て海運業を独占しました。三菱財閥は、三井、住友とともに日本の三大財閥とも呼ばれますが、三井、住友が三百年以上の史を持つ旧家なのに対して、三菱は明治時代に政商として、巨万の利益を得て礎を築いたとされています。1894年に三菱合資会社を設立し、これを持株会社として造船業、鉱業、鉄道、貿易などあらゆる分野に進出します。時は流れ第二次大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の司令により他の財閥とともに、四代70年に及んだ岩崎家による経営は幕を下ろすこととなります。しかしその後企業集団としての再統合が進められ三菱グループが形成されました。
海運業を軸に三菱を創設した男
岩崎弥太郎は日本が近代に向かう時代を代表する大企業家の一人。幕末の時代に、土佐藩の役人として長崎に赴任、鰹節や樟脳など土佐の特産品を売り、軍艦や武器を購入していました。その後大阪に移ると海運と貿易にて有能ぶりを発揮し、藩の活動に大きな役割を果たしました。その後明治政府は廃藩置県に伴い、藩営事業禁止の方針を打ち出します。そんな中1870年(明治3年)土佐藩の有力者である後藤象二郎、板垣退助等は私商社として九十九商会を設立し藩の海運事業を譲渡します。事業に最も精通している弥太郎に経営、監督を一任します。これが「三菱」の誕生となりました。また、岩崎弥太郎は、日本で初めてボーナスを出した人物としても有名です。1876年(明治9年)世界最大の海運会社である英国のピー・アンド・オー社との競争で社員は給与の3分の1を返上し、経費削減を実行。ビジネス戦争に勝利したため社員に年末の賞与を支給したとされています。
弥太郎の先見性で成長した三菱
岩崎弥太郎は海運事業だけにとどまらず、1873年(明治6年)に岡山県の吉岡鉱山を入手しました。同年、社名を九十九商会後の三川商会から三菱商会へ社名を変更しており、この時に、土佐藩主山内家の三つ柏紋と岩崎家の家紋「三階菱」ベースに現在広く知られている三菱のマーク「スリーダイヤ」を作ったとされています。吉岡は近代的な技術の導入により良質な鉱脈を掘り当てると、日本三大銅山の一つとなりました。弥太郎は、持てる経営資源を様々な事業に注ぎ込み、金融や倉庫業も行いました。1881年(明治14年)には貿易商トーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)が本格的な海洋炭鉱開発に着手した「高島炭坑」を後藤象二郎から引き継ぐ形で買取り、それを大きく発展させて三菱の収益源とさせていきました。
新たなる時代へと
「三菱」といわれてピンとくる方、こない方様々だと思います。例えば一番身近なところでいいますと、キッチン家電や生活家電、エアコンなどの空調設備、映像機器、カー製品、又は商業施設や集合住宅の昇降機設備などが割と一般的です。ある人が「三菱=機械のデパート」と呼んでいるのをネットで見たことがあります。激動の幕末〜昭和、平成と日本を支えてきた三菱は他にもエネルギーや航空関係、物流・運搬、船舶や防衛、そして宇宙開発などに力を注ぎ、日本の中心企業として今もなお躍動し続けています。
三井財閥
三井の創業者は、江戸時代の商人である三井高利とされています。三井高利は通称を八郎兵衛といい、三井家の基礎を築き、三井中興の祖である「三井十一家」の基となった人物です。三井十一家には、油小路北家、伊皿子家、新町家、室町家、油小路南家、小石川家、松坂家、永坂町家、小野田家、長井家、家原家がありますがその内、小野田家、永井家、家原家は明治に入り、途絶し代わって五丁目家、一本松町家、本村町家が連家として興りました。高利は1622年に伊勢松阪に生まれ、14歳の頃10両分の松阪木綿を手に、江戸に出て商売の修行を始めたといわれています。高利はその後、28歳の頃母の面倒を見るために、松阪に戻り、豪商の中川氏の長女かねを妻に迎え、10男5女をもうけ雌伏の時を過ごします。1673年(延宝元年)高利は長兄俊次の死をきっかけに江戸に再進出します。高利52歳の時でした。江戸本町1丁目に「三井越後屋呉服店」(越後屋、後の三越)を開業しました。
激動の幕末を乗り越えて
三井にとって幕末維新は大きな試練となりました。それは徳川幕府と密接な関係にあったからだといわれています。しかし三井は緻密な情報収集や的確な情勢判断、また三野村利左衛門等の活躍により新政府発足後の新時代に対応していきます。三野村は幕臣小栗忠順と三井のパイプ役として任命され、小栗が失脚すると幕府の命運を察し、新政府への資金援助を開始するように三井組に働きかけたといわれています。三井は新政府の財政運営に深く関わっていくこととなりました。
新事業形成と三井財閥の解体
幕末維新の大動乱を乗り越えた三井は、三井銀行、三井物産、三井鉱山という新たな事業基盤を形成していきます。1897年〜1907年(明治30年〜40年)にかけて「三井家憲」を制定し、持株会社である三井合名会社が、傘下の事業会社を所有し統括する体制を整えました。現在三井グループとして知られる多くの企業は、三井が日本最大の財閥となった第一次大戦後に、重化学工業部門に進出した頃に設立されたものが多いとされています。この頃に大活躍した三井の実業家といえば益田孝や團琢磨というのは有名な話です。三井は昭和恐慌時代から戦時統制へと続く時代の中においても規模を拡大し続けますが、敗戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の財閥解体制作によって財閥としての歴史に終止符をうたれました。
三井の再結集
第二次大戦後、三井系の企業は日本の経済が復興を果たしていく中で、共に企業力を回復させていきます。1961年(昭和36年)には三井各社の社長会「二木会」が結成され、戦前期・三井財閥とは異なる三井グループとして協力会社を形成していきます。そして令和の時代になっても三井は多くの人々を幸せにしてくれています。
住友財閥
住友財閥は現在の住友グループで世界で最も古い歴史を持つ財閥とされています。住友家の祖先は平家一門といわれ、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされています。住友忠重は始祖ということになりますが、住友家には家祖と業祖と2つの創業者が存在します。家祖は忠重から数えて八世にあたる住友政友で政友が武士から僧侶となり、その後還俗して京都で書籍と薬を商う「富士屋」を開き、商家・住友家を興したとされています。
南蛮吹き
業祖とは政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門で、理右衛門は南蛮吹きと言われる銅精錬の技術を開発し、1590年(天正18年)京都に銅吹所を設けました。後に銅吹所が住友家の家業となると理右衛門を業祖と崇めました。南蛮吹きは理右衛門が南蛮人からヒントを教わり完成した技術で灰吹法と呼ばれ、金や銀を鉱石などから一旦鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する方法です。金銀を鉛ではなく水銀に溶け込ませるアマルガム法と並んで古くから伝わる技術で旧約聖書にも記述があります。
住友財閥の起源と発展
住友二代目友以の先見の明により1624年(寛永元年)商売を大きくするために京都から、商業の中心地であった大阪へ出張所を出しました。銅は当時一大輸出品で住友の銅精錬業は大いに栄えました。これが住友財閥の起源であるとされています。また、銅の貿易のみならず、糸、反物、砂糖、薬種等の輸入品を関西方面で売り捌くなどして利益を得て、両替商を開業しました。その後、友以の後を継いだ友以五男・友信は住友吉左衛門と名乗り、秋田の阿仁銅山、備中の吉岡鉱山などの経営に乗り出し、幕府御用の銅山師となり日本一の銅鉱業者となりました。慶応初期には住友は日本の四大資産家の一つに挙げられていました。
結束の住友
関西地区において住友グループは特に年配者層を中心に評価が高いとされています。それは三井、三菱などの各王手グループより圧倒的な存在感で健在しているといわれています。「井桁ののれん」にこだわりを強く持ち「結束の住友」と呼ばれる住友は、グループ主要企業の社長会「白水会」を行っており、三井住友銀行(2001年三井グループ さくら銀行と合併)、住友金属工業、住友化学を「住友御三家」、住友商事、住友電気工業、日本電気(NEC)を「住友新御三家」と呼んでいます。住友グループは2025年開催予定の大阪・関西万博に出店の予定をしており大きな期待が寄せられています。
最後に
さて今回は、Bridge初めての投稿記事となりますが如何だったでしょうか。三大財閥をテーマとして取り上げましたが、とても一言では言い表せない壮絶な物語を目の当たりにしました。普段何気なく使用している銀行や、ショッピングセンター、昇降機設備、CMで見かけるあの会社などにも沢山の歴史やロマンが詰まっており、元を正すと大財閥が関わっていて、改めて歴史の深さや人間の行動力や努力に感動しました。今後もっと面白い記事をかけるように日々精進してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。