社会

明治維新

明治維新(めいじいしん、英語: Meiji Restoration、Meiji Revolution[1][2]、Meiji Reform[3])とは、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本において行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革のことを指す[4][5]。その範囲は、政治や中央官制法制宮廷軍事身分制地方行政金融流通産業経済文化教育外交宗教思想政策の改革・近代化などを含んだ。

同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた[5]。歴史学者の中には維新革命(いしんかくめい)[2][6]明治革命(めいじかくめい)と表現する者もある

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黒船

Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron, to Meet the Imperial Commissioners at Yoku-hama, Japan, March 8th 1854

マシュー・カルブレイス・ペリーは1852年11月に、東インド艦隊司令長官に就任すると、日本を捕鯨船の寄港地とするため交渉するよう依頼する大統領の親書を、幕府に手渡すよう司令を受けました。ペリーはアメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えて、バージニア州ノーフォークを出航しました。1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に江戸湾の浦賀沖に入港したペリーは幕府が指定した久里浜に上陸すると、幕臣戸田氏栄井戸弘道に大統領の親書を渡しました。この時、具体的な協議は執り行われませんでしたが、ペリーは日本に開国を要求しました。翌年1854年2月13日(嘉永7年1月16日)ペリーは7隻の軍艦を率いて、横浜に入港し早期の条約締結を求め3月31日(3月3日)神奈川で日米和親条約を調印しました。日本人は浦賀沖に姿を表したペリーが率いる軍艦を「黒船」と呼びました。日本はペリーが帰国した後、動乱の幕末を迎えることとなります。

安政の大獄

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1853年(嘉永6年)12大将軍・徳川家慶は黒船来航後に死去し、13大将軍に家慶の四男、家定が就任するも、男子を儲ける見込みがなく徳川家に将軍継嗣問題が起こりました。前水戸藩主・徳川斉昭の七男で英明との評判が高い一橋慶喜を支持し諸藩との協調体制を望む一橋派と徳川家の血統を重視し、現将軍と血筋の近い紀州藩主・徳川慶福(徳川家茂)を推す南紀派とで分裂し対立が始まることとなります。その一方で、米国総領事タウンゼント・ハリス日米修好通商条約への調印を幕府に迫っていました。幕府と諸大名は条約の締結の可否、また調印をどうすべきかを話し合い結果、条約の締結をやむなし可とし、朝廷勅許の下、締結を行うとしました。幕府は堀田正睦を上京させ、朝廷からの勅許を受けに行きますが、尊攘派梅田雲浜の工作などあり攘夷論者の孝明天皇から勅許を得ることはできませんでした。1858年4月(安政5年)堀田正睦が江戸に戻った直後、南紀派の井伊直弼が大老に就任します。直弼は無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行しました。これらの諸策に反発した徳川斉昭は長男の徳川慶篤、尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平慶永らと連合しました。6月24日、松平慶永は彦根藩邸を訪れて登城前の直弼に違勅調印を詰問。さらに将軍継嗣の発表を延期するよう要求し、江戸城に登城しようとする直弼を追いかけ江戸城に登城。徳川斉昭、慶篤、慶勝は、直弼以下幕閣を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)を冒しました。直弼は「不時登城をして御政道を乱した罪は重い」として彼らを隠居・謹慎などに処しました。これが安政の大獄の始まりとされています。

桜田門外の変

井伊直弼は、幕府の権威を守るため一橋派を権力でおさえました。徳川斉昭は永蟄居、徳川慶篤に差控、一橋慶喜に隠居・謹慎の処罰を下しました。幕府に反対する大名家の家臣や、尊王攘夷派の志士も処罰の対象となり、梅田雲浜は獄死、吉田松陰橋本左内鵜飼吉左衛門等は死罪に処されました。安政の大獄を行った以降、直弼は井伊の赤鬼の渾名でも呼ばれていました。1860年(万延元年)3月3日午前9時頃、直弼を載せた駕籠は雪の降る中、外桜田の藩邸を出発し江戸城に向かいました。供回りの徒士、足軽、草履取りなど60名程の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとした時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士18名による襲撃を受けました。直弼は短銃で撃たれ重症を負い駕籠から動けず、供回りの一部は狼狽して遁走する者もおり、駕籠を守ろうとした彦根藩士の多くは、雪を避けるために鞘に取り付けていた柄袋が邪魔になり、抜刀する間もなく刺客たちに切り伏せられました。幕府側が不利な形勢の中、彦根藩士も抵抗を行い、結果として刺客側も被害が拡大しました。やがて護るものがいなくなった駕籠に刺客達は何度も刀を付き刺し、小息の直弼を駕籠から引きずり出すと有村次左衛門が首をはねました。直弼享年46(満44歳没)。この事件を桜田門外の変と呼びます。

生麦事件

1862年(文久2年)、薩摩藩主・島津久光は幕政改革を志して700人の軍勢を引き連れて江戸へ出向いた後、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなりました。久光は大原の一行より1日早い8月21日、およそ400名の軍勢を率いて江戸へ出発しました。八ツ時(午後2時)頃、行列が武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)に差し掛かった折り、4人の騎馬のイギリス人と行き会いました。横浜でアメリカ人経営の商店に務めるウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル。マーシャルの従姉妹でイギリス商人の妻、日本観光中のマーガレット・ボラデール夫人、そして、上海で商売をしていて、やはり日本観光中のチャールズ・レノックス・リチャードソン。この日は日曜日で4人は東海道沿いを川崎大師に向かって乗馬を楽しんでいたといわれています。4人は島津久光の行列に正面から乗り入れ、行列の先頭にいた薩摩藩士の道を譲るようにの身振り手振りの説明を受けるも、行列が道いっぱいに広がっていたこともあり、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んで行きました。鉄砲隊も突っ切り、ついには久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れてしまいました。4人は供回りの声に反応し、流石にまずい状況だということに気が付きましたが、下馬するという発想はなく、馬首をめぐらそうとして、辺り構わず無遠慮に動き回ったところを、数人の藩士が斬りかかられました。この時リチャードソンは深手を負い命を落とし、マーシャルとクラークは流血するなどの大怪我、ボラデール夫人は一撃を受けるも帽子と髪の毛が飛ばされただけの無傷でした。尊王攘夷運動が高まる中、生麦での事件は大きな政治問題となり、そのもつれから薩摩藩とイギリスとの間で戦争が勃発することとなります。

薩英戦争

1862年(文久2年)8月の生麦事件が起きた後、イギリス代理公使ジョン・ニールは幕府に対して事件の責任者処罰及び賠償金を請求しました。これに対し幕府はイギリスに公式謝罪と償金10万ポンドの支払いに応じましたが、薩摩藩主・島津家は、艦隊で鹿児島城下前之浜沖に投錨するイギリスに「生麦事件に関して責任はない」と返答書を提出し、犯人の引き渡しと償金2万5000ポンドの請求には応じませんでした。ニール代理公使は島津家の使者に対し、請求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告しました。島津家は開戦を覚悟し、当主・島津茂久と後見役・島津久光は、鹿児島城がイギリス艦隊の艦砲の射程内と判断されていたため、本営を鹿児島近在西田村(現・鹿児島市常盤)の千眼寺に移しました。イギリス艦隊の旗艦には、幕府から得た賠償金が積まれていました。イギリス側は島津家との賠償金の交渉を有利にするために薩摩汽船、天祐丸、白鳳丸、青鷹丸の3隻を掠奪しました。これに激発した薩摩方は天保山の砲台をはじめとする各砲台を発砲し、戦闘が開始されました。台風襲来の最中の戦闘で鹿児島城下は放火を浴びて火の海と化しイギリス側も防風被害、食料や武器の不足による苦戦を強いられ勝敗不明のまま撤退を余儀なくされました。死傷者は、イギリス側が戦死13、負傷50名に及びましたが、薩藩側は戦死5、負傷十数名でした。しかし薩摩側はイギリス海軍の威力を認識し無謀な攘夷を反省する機運が生まれ、大久保利通重野安繹等を交渉委員にたて、償金を幕府の立て替え払いで支払い、イギリス側も薩摩の軍艦購入を周旋するなどの条件で成立しました。以降、薩摩とイギリスの関係は急速に接近し、薩摩藩のイギリス留学生派遣が実現するなど、友好関係を深めていきました。

薩長同盟

戦火

1866年3月7日(慶応2年1月21日)京都市内の小松帯刀邸で薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟である薩長盟約、薩長連合、又は薩長同盟が締結されました。京都を中心とする幕末の政治世界において大きな影響力を持っていた薩摩藩と長州藩でしたが、同盟する前の両藩は相容れない立場にありました。薩摩藩は公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めていました。それに対し長州藩は攘夷論を奉じて反幕的姿勢を強めていました。1863年8月18日(文久3年)薩摩藩は会津藩と協力し文久の政変などと呼ばれる、長州藩勢力を京都政界から追放しました。1864年(元治元年)7月19日、京都から追放された長州藩勢力は会津藩主で京都守護職の松平容保等の排除を目的とし上京都へ出兵。長州藩と諸藩浪士対幕府軍(会津藩、薩摩藩、福井藩、大垣藩、桑名藩、新選組)による京都市中において市街戦を繰り広げる禁門の変と呼ばれる武力衝突が起こりました。この戦いは京都市中3万戸が焼失するという幕末の世を揺るがす大事件となりました。

同盟締結

禁門の変により薩摩藩と長州藩の敵対関係が悪化すると長州藩は幕府より第一次長州征討を受けるという窮地に陥りました。一方で薩摩藩も自分たちが主張する幕政改革の展望を開くことができず大久保利通西郷隆盛を中心に幕府に対する強硬論が高まっていきました。イギリスの駐日公使のハリ―パークスは、福岡藩士月形洗蔵早川勇などの尊王攘夷派の周旋もあり、高杉晋作伊藤博文との会談や、薩摩藩と同じく幕末の世に影響力を持っていた土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつける活動をしていました。しかしパークスによる両藩の調停は失敗しましたが、この動きが薩長同盟の足掛かりとなっていったのではないかとされています。土佐の脱藩浪人で、長崎において亀山社中(海援隊)を率いていた坂本龍馬中岡慎太郎の斡旋もあり、主戦派の長州藩重臣の福永喜助邸において会談が勧められ、下関での会談を西郷隆盛が直前で拒否する事態もありましたが、1866年3月7日(慶応2年1月21日)小松帯刀邸にて、坂本龍馬を介し薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允が6か条の同盟を締結しました。

大政奉還

大政奉還(たいせいほうかん)は、慶応3年10月14日1867年[3]11月9日)に日本二条城江戸幕府第15代将軍徳川慶喜政権返上を明治天皇奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許したこと。

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徳川幕府

1603年徳川家康が開いた江戸幕府は、米や金銀の鉱山開発、商業の発展、交通や通商の発展により文化や情報の交流が活発でした。特に文化は平和な時代が続き、武士文化や、庶民文化の発展がみられました。歌舞伎や浮世絵、俳諧、茶の湯、華道、読者、学問などが一般の人々に広まり、栄えました。しかし5代将軍綱吉の時代になると、4代家綱の時代に起きた明暦の大火の江戸復興や、朝廷対策を行うことによって存続させる幕府の権威政策などにより財政は悪化していきます。説によれば徳川幕府の財政難は最後の将軍慶喜の時代まで続いていたといいます。

産業革命

18世紀半ばから19世紀にかけてイギリスを皮切りにベルギー、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシアなどで産業革命が起こりました。産業革命とは石炭の利用によるエネルギー革命とそれに伴う社会構造の変革のことを言います。特に重要な変革としてみなされるものは、綿織物の生産過程における様々な技術革新、製鉄業の成長、そして蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられます。欧米諸国はより多くの原材料や、市場拡大を求めアジアへ進出し1853年アメリカからペリーが来航し鎖国政策をしていた江戸幕府に開国を迫りました。

開国

開国をしなければ武力行使も辞さないとするペーリ―の要求を受け江戸幕府は開国します。しかし外国の言いなりになる幕府に対して不満を持つ攘夷論者達は、力のなくなった幕府を倒し、新しい国家の建設を目指すべきだとして団結し始めます。その勢いがあまりにも強いので、徳川家を護るためにも慶喜は鎌倉時代から始まり朝廷から「征夷大将軍」という役職を任命され、権力を預かり約700年間政治を行ってきた武家政権(徳川幕府は約260年)を1867年11月(慶応3年10月)京都の二条城で、朝廷に対し「政権をお返しします」と申し出ました。

大政奉還の上表の内容(現代語訳)

陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて、朝廷の権力が衰え相家(藤原氏)が政権を執り、保平の乱(保元の乱平治の乱)で政権が武家に移りましてから、祖宗(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできたところでございます。そして私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致すところ、慙愧に堪えない次第であります。ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければもはや国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来ると存じ上げます。私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達しております。以上、本件について謹んで奏上いたします。

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戊辰戦争

王政復古

江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の大政奉還を受け、武家政治を廃し君主政体に復した政治転換を王政復古といいます。1868年1月3日(慶応3年12月9日)京都御所の御学問所にて明治天皇より勅令「王政復古」が発せられ、江戸幕府廃止、摂政、関白等の廃止と三職の設置、諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議を尽くすことが宣言され、新政府が成立しました。

徳川の思惑

大政奉還後、朝廷の委任により当面庶政を担っていた幕府はこれによって廃絶を宣言されましたが、同時に朝廷(摂関以下の公家衆の機構)も廃絶となり「天下の公議」による政治を行うため、天皇の下で従来の身分秩序を超えて公家・諸大名・諸藩士から登用する新政府が発足する事となりました。しかし、そこから排除された徳川家・旧幕府勢力の実態は依然として存在しており、慶喜らの新政府への参画を支持する勢力もあり、説によると慶喜の心中には大政奉還することで討幕運動を冷却化させ徳川家を護る形を作り、新政府の中において自ら(徳川)を中心とした新しい政治を展開するべき思惑があったのではないかといわれています。そして岩倉具視や、西郷隆盛、大久保利通等、徳川完全排除派が中心となり、旧幕府軍と戦う戊辰戦争へと進んでいきました。

日本近代史最大の内戦

後に近代日本最大の内戦と呼ばれる戊辰戦争には、大きく分けて5つの戦いが繰り広げられました。

鳥羽・伏見の戦い

大阪城を拠点とした旧幕府軍の指揮を執る徳川慶喜は大阪の薩摩藩邸襲撃、その後、京都の南郊外鳥羽伏見にて薩摩・長州連合軍と旧幕府軍の戦闘が開始されました。旧幕府軍1万5000、新政府軍5000の戦い朝廷が徳川慶喜を朝敵とみなしたことにより賊軍となった佐幕派の兵士の士気は下がり、圧倒的なな戦力差を覆された旧幕府軍は敗北しました。徳川慶喜は自軍を捨てて大阪城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却。旧幕府軍は完全に戦争目的を喪失することとなりました。

江戸城無血戦開城

鳥羽伏見にて敗北した旧幕府軍は江戸へ逃れることとなります。1868年(慶応4年)3月〜4月にかけて、旧幕臣の勝海舟と新政府の西郷隆盛の働きにより江戸城は、戦闘ではなく話し合いで新政府へ引き渡される事になりました。勝海舟と西郷隆盛の面談には徳川側から、山岡鉄太郎、大久保一翁、新政府側から村田新八、桐野利秋が出席していたと思われます。3月14日の第2回交渉で勝海舟か先般の降伏条件に対する回答は以下のとおりです。

  • 徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
  • 慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
  • 武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
  • 城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
  • 江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
  • 暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。

西郷隆盛は勝海舟の回答を自らの責任で京都へ持ち帰り検討することを成約しここに、江戸城無血明け渡しが決定されました。西郷隆盛が持ち帰った回答は、岩倉具視などによって修正され7箇条となりその内容を巡って会津戦争に繋がっていきます

東北戦争

東北諸藩は会津藩と庄内藩の「朝敵」扱いを許してもらうように新政府に嘆願するも拒絶されてしまいます。東北諸藩は新政府軍に対抗するために軍事同盟である奥羽越列藩同盟を結ぶこととなります。成立間もなく新政府軍は東北への進行を開始します。

会津戦争

戊辰戦争の局面の一つ。会津藩の処遇を巡って薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩及び奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いで、現在の福島県会津地方が主戦場となりました。「白川口の戦い」や「二本松の戦い」などで旧幕府軍は敗れ、城下町の火災を若松城の落城と間違えた白虎隊が飯盛山で集団自決するという悲劇も起こりました。

箱館戦争

戊辰戦争の最後の戦闘。幕臣・榎本武揚を筆頭に奥羽越列藩同盟や新選組の土方歳三等は蝦夷地(北海道)へ出航し朝廷の下で蝦夷の警護することなどを求めましたが新政府は認めず戦闘となりました。旧幕府軍は本拠地を函館の五稜郭としたことから五稜郭の戦いとも呼ばれています。土方歳三は戦死し榎本武揚は新政府軍に降伏し、新政府軍戦死3556名、負傷3804名、旧幕府軍、戦死4707名、負傷1518名の戊辰戦争は集結しました。

最後に

約260年戦争のない世の中を作った徳川幕府。幕末、産業革命などにより外国船が日本へやってきては、開国を迫り自分たちの商売の利益を高めようとした時代。結果、佐幕派と尊王攘夷派が争い、明治維新が起こりました。なぜ日本列島全土を巻き込むような争いが起こってしまったのでしょうか。明治政府ができてから西南戦争を経て、日本は世界を相手にいくつも戦争を重ねていくこととなります。この記事を執筆している令和5年現在も世界では戦争が続いており、日本も対岸の火事とは捉えることができないような情勢が近づきつつあるように思えます。もう一度悲惨な歴史を見直し、全ての人類が平和に暮らしていける世の中を創造していきたいものです。最後までご視聴いただきありがとうございました。

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Bashihide

ビートメイカー・動画クリエーター。何かとお役に立ちそうな記事を展開していきます。最近はバイクにハマっています。

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