江戸時代とは
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史のうち江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本[1]、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。
日本史上の時代区分としては、安土・桃山時代(または豊臣政権時代)と合わせて「近世」とされる。
江戸時代の期間は、1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから[注釈 1]、1868年10月23日(慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、慶応から明治に改元されるまでの265年間である
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徳川家康が開いた江戸幕府
大器晩成、偉大な大名
有名な歌で「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座して喰らふは徳の川」というものがあります。意味は「織田信長や羽柴秀吉が苦労して成し遂げた天下統一を何もしてない徳川家康が横取りした」といった内容です。しかしながら何の苦労もなく家康が天下統一を成し遂げたのかと言いますとそうではなく、幼少期の今川家の人質だった時代から、三河一向一揆の鎮圧、朝廷から三河守を任じられ、織田軍を援護する姉川の戦い(浅井、朝倉軍撃破)や、武田軍と戦った三方ヶ原の戦いや長篠の戦い、織田信長の死後、羽柴秀吉と激突した小牧・長久手の戦い(結果は秀吉と家康は和解し家康は秀吉の統一事業を協力する形となる)などを経て、秀吉の小田原征伐後による天下統一達成の際に、新領地の中心となる江戸城に入り関東250万石を領有する国内最有力大名となったのです。その後、徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いで西軍を破り、3年後の1603年に征夷大将軍に就任し江戸幕府を開きました。家康が61歳の頃です。
江戸の都市計画
扇谷上杉家の家宰、太田道灌が築いたとされている江戸城とその周囲は、現在の皇居外苑付近まで海でした。家康は決して良い条件ではない立地に対する当時の否定的な見方をものともせず、その先にある発展性を見込み、海を埋めたて江戸の町を人々が住みやすい環境へ変えていったのです。家康は江戸城の飲料水を確保するために貯水池(現在の千鳥ヶ淵)造りに着手、次に生活物資の輸送河路を確保(現在の小名木川)することや低地故の水害に対する河川工事も行いました。家康によってなされた江戸の都市計画は3大将軍・家光の時代にほぼ完成したと云われています。ちなみに現代に至るまで東京が世界有数の大都市となったのは、当時家康の河川工事があったからだという説も多数あります。
風情溢れる、江戸の始まり
元和偃武(げんなえんぶ)
1615年(慶長20年)5月の大阪夏の陣において江戸幕府が大阪城主の豊臣家(羽柴宗家)を攻め滅ぼしたことによって、平安時代以降700年近く続いた政局の不安、享徳の乱、応仁の乱以来150年以上にわたり断続的に続いた大規模な軍事衝突、つまり戦国時代が終了しました。同年の7月江戸幕府は朝廷に元号を慶長から元和と改めさせ、天下の平定は完了したことを広く宣言しました。以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、日本は平和な状態が続きました。
庄屋仕立て
徳川幕府の設立当初の運営体制は、その職制が簡単で、まるで農村の庄屋さんが村を取り仕切る、村の経験豊富なベテランが村の事項を決める感じに似ていることから、「庄屋仕立て」と呼ばれ、幕臣の小宮山昌世が比喩的に表現した言葉といわれています。
幕藩体制
江戸時代の統治体制は幕藩体制と呼ばれました。将軍家(幕府)のもとに、大名家(藩)、旗本・御家人が服属する体制のことをいいます。直轄地は幕領・天領と呼ばれ、重要地点には城代、所司代、町奉行・遠国奉行などが派遣、その他の幕領にも郡代・代官が置かれ、支配に当たりました。
武家諸法度、禁中並公家諸法度
1615年江戸幕府は諸大名の統制のために制定した基本法(武家法)、武家諸法度を行いました。これを発布した2代将軍・徳川秀忠は大名が幕府の許可無く築城することや、結婚することも禁じるなど厳しく統制し、大大名も改易処分となり大領を失うことが発生するなど、幕府に反抗する勢力が現れないよう、また「本能寺の変」などに似た下剋上が起こらぬよう法令を定めました。武家諸法度とほぼ同時期に、幕府は皇室及び公家に対しての法令を定め、それを禁中並公家諸法度としました。理由として過去の時代において、天皇と幕府が争いを繰り広げることもあったという歴史から、そのようなことが起こらないように皇室や公家の行動に制限を設け、幕府に反抗する力を持たないように、この法令を定めたとされています。
優雅なる瞬間、江戸時代の文化の煌めき
歌舞伎
歌舞伎は1600年頃出雲大社の巫女だったと伝わる出雲阿国が始めたかぶき踊(踊念仏)が始まりで、これを見た京都の遊女達が真似をしたことから広まったとされています。奇抜な身なりをする「傾く」に由来した歌舞伎は、流行当初は女性が演じる「女歌舞伎」が主流でしたが、風紀を乱すという理由から1629年に禁止となりました。その後、美少年達が「若衆歌舞伎」を始めますが1652年こちらも風紀を乱すとの理由で禁止されます。しかし1653年、成年男子が演じる野郎歌舞伎は興行を許されます。野郎歌舞伎は女優禁止のために、男性が女性に扮する「女形」(おやま)による演技が特徴で、この野郎歌舞伎が本格的な演劇に成長し現在まで続いているとされています。
浮世絵
左の浮世絵は葛飾北斎「富嶽三十六景/駿州江尻」(wikipediaより)ですが、浮世絵は1657年頃生まれたとされ、江戸を中心とする庶民に流行した風俗画の総称です。浮世絵は木版画と肉筆画の2種類あって、当時主流だったのは木版画でした。木版画は中国から伝来した木版技術を用いて印刷した絵のことで1枚の絵をもとに大量生産が可能な技法だったことから大衆は上質な絵画を安価で購入するようになりました。一方の肉筆画は版画形式ではなく絵師が自筆で描いた1点物となるため高価な高級品として富裕層に求められました。19世紀後半、1867年に行われたパリ万国博覧会に浮世絵は正式出品され多くの反響を呼びました。
学問
歌舞伎や浮世絵など江戸時代に栄えた町人文化を化政文化と呼ぶこともありますが、江戸時代は国学や蘭学などの学問も大きく発展した時代と言えます。江戸時代の国学の発展を担ったのは、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)でこの4人を「国学四大人」と呼びます。特に本居宣長は国学を大きく発展させた人物で代表作は「古事記伝」です。また蘭学はオランダから入ってきた医学や天文学で、ドイツ出身のシーボルトによって長崎で開かれた鳴滝塾や、蘭学者・緒方洪庵が大阪に開いた適塾では多くの人が蘭学を学びました。蘭学医の中でも杉田玄白と前野良沢は有名で、2人は協力してオランダの「ターヘル・アナトミア」の翻訳本「解体新書」を発表し、人体の仕組みについてあまり知られていなかった日本に大きな影響をもたらせました。
改革・江戸時代の息吹
生類憐れみの令
1685年、江戸幕府5大将軍・徳川綱吉は動物、嬰児、傷病人保護を目的とした法令、生類憐れみの令を打ち出しました。保護する対象は、捨て子や病人、高齢者、動物で対象とされた動物は、犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類にまで及んだとされています。しかし漁師の漁は許容され市民はそれを買うことは良しとされていました。儒教を尊んだ綱吉は長男を早くに亡くしている事や、1682年に犬を大量虐殺したものを極刑にした例などをはしりとして、人々が仁心を育むように」と思い生類憐れみの令を政策したと云われています。生類憐れみの令は庶民の生活に大きな影響を与えたため「天下の悪法」と評価されたこともあったそうですが、近年の研究では儒教に基づく文治政治の一環であるとして再評価がなされているそうです。尚、鷹狩の禁止や、将軍の御成の際に犬や猫をつなぐ必要はないという法令は8大将軍・徳川吉宗によって廃止されています。
享保の改革
享保の改革は寛政の改革、天保の改革と並ぶ江戸時代3大改革の一つです。8大将軍・徳川吉宗は傾きかけた幕府の財政の再生を目指し改革を行いました。それが享保の改革と呼ばれています。吉宗は先代までの政治が、権現様(家康)のお定めどおりの内容で文治政治に凝り固まり且つ、将軍は何もせず老中や側用人が主導していた事に不満を持ち、自らが先頭に立ち政治を執り行うという将軍だったと云われています。吉宗は、生類憐れみの令で禁じられていた鷹狩を復活させ、権現様(家康)が祀られている日光への社参を大々的に行い、幕府の威光を取り戻し、太平の世に緩んだ人々の心を引き締めようと考えました。幕府財政の回復のために四公六民だった年貢率を五公五民に増やし、天候による米の取れ高の変動に関わらず一定量の年貢を徴収する定免法の採用、大名の参勤交代による江戸滞在期間を緩和させるかわりに幕府に米を献上させる上げ米の制を定めました。他に、キリスト教以外の洋書の輸入の緩和、奉行所の負担を軽くする相対済令、幕府への意見を一般市民から求めることができる目安箱の設置などを行いました。それらの改革により幕府財政や、幕威は回復したものの重税や厳しい倹約令による農民や市民の不満はつのり各地で一揆が多発したと云われています。
寛政の改革
寛政の改革は享保の改革、天保の改革と並ぶ江戸時代3大改革の一つです。寛政の改革の目的は幕藩体制の見直しにありました。8大将軍・徳川吉宗の孫に当たる松平定信による政策ですが、定信が老中に就任する前は、田沼意次が老中として働いており、田沼時代と呼ばれるその時代は経済振興を主とした政治が執り行われ、意次による様々な政策により、地方の農村まで貨幣経済が浸透し都市部は繁栄していました。しかしその裏では役人達の賄賂の横行や、政治の腐敗面も現れていました。また火山の噴火や天明の飢饉などもあって国内の農民の生活は困窮し、各地で一揆や打ちこわしが多発しました。中でも天明の打ちこわしは、江戸時代でも最大級に激しい打ちこわしだったと云われています。この天明の打ちこわしによって失脚した田沼意次に変わり老中に就任した松平定信が寛政の改革を行ったとされています。寛政の改革の内容は凶作や天災によって作物が取れなくても、暫くは民衆が植えないようにする米の備蓄する制度の囲米、朱子学以外の学問の禁止、生活に困っている武士の救済、古里帰農令、これは貨幣経済浸透の田沼時代に地方の農村から江戸に多くの人々が流入してきた背景から、江戸で生活苦となる者が増え、治安の悪化、地方農村の荒廃が起こっていました。松平定信は江戸から地方に帰ることを推奨し、その旅費や補助金を支給する体制を整えました。他に、大奥の予算減、朝廷への経費節約要請などを行った倹約の徹底を行い田沼時代の華やかな贅沢を厳しく禁止しました。しかしこれらの政策の一部は多くの人々から反感を買い「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」などという狂歌も流行しました。
天保の改革
天保の改革は享保の改革、寛政の改革と並ぶ江戸時代3大改革の一つです。江戸幕府11代将軍・徳川家斉は文武両道を重んじ、幕政に真面目に取り組む反面贅沢な生活をしていたことで有名な将軍です。説によれば側室が40人で子供は50人以上いたとされています。自由気ままな性格から飲食も派手に行い大奥に入り浸っており、幕府の支出はどんどん増し、財政が悪化していったとされています。さらにこの頃はロシアなどの外国船が日本近海での動きが活発となり、海防費も必要となっている情勢でした。そこに輪をかけるように天保の大飢饉が襲いかかり、餓死する者も多数、米価などの物価上昇、一揆、打ちこわし騒ぎが起こり、幕府や役人の不正に不満を持った大塩平八郎の乱も起こりました。将軍職を徳川家慶に譲っていた、贅沢男の家斉が亡くなると水野忠邦が老中首座となり、財政の引き締め、物価の抑制、農村復興のための人返しなどを行いました。
乱と飢饉
天下泰平の世を謳歌した江戸時代、仁政と武威という2つの政治理念の下、人々は暴力を封印し幕藩領主には祈願を行うという考え方が広まっていました。江戸時代に日本全国で発生した百姓一揆や打ちこわしの中で武器の携行・使用があったのは全体で14件(0.98%)と少なかったということが調査によって明らかにされています。徳川幕府が作った江戸幕府は武力による内戦や外国との戦争が始まる幕末までの間およそ250年平和な時代を築き上げました。ここでは江戸時代に起こった有名な乱や飢饉を取り上げていきます。
江戸の4大飢饉
名称 | 時期 | 被害の中心 | 当時の将軍 | 原因 |
寛永の大飢饉 | 1642年(寛永19年)〜1643年(寛永20年) | 日本全国(特に東日本日本海側) | 徳川家光 | 異常気象 |
亨保の大飢饉 | 1732年(亨保17年) | 中国・四国・九州地方(特に瀬戸内海沿岸) | 徳川吉宗 | 冷害と虫害 |
天明の大飢饉 | 1782年(天明2年)〜1787年(天明7年) | 日本全国(特に東北地方) | 徳川家治 | 浅間山の噴火・エルニーニョ現象 |
天保の大飢饉 | 1833年(天保4年)〜1839年(天保10年) | 日本全国(特に東北地方) | 徳川家斉・徳川家慶 | 異常気象 |
島原の乱
島原の乱は1637年10月下旬、島原・天草地域で引き起こされた百姓を主体とする大規模な武力闘争事件です。島原藩主の松倉勝家による過酷な年貢の取り立てが原因とされ、勝家は年貢を納められない農民や、改宗を拒んだキリシタンに対し拷問や処刑を行いました。領民は勝家の行ったことに対し不満を持ち、大規模な反乱を起こしました。また日本最大級とも呼ばれる島原の乱は、キリスト教徒弾圧によるキリシタンの反乱による宗教戦争とも呼ばれており、若干16歳の天草四郎(益田時貞)を一揆軍の総大将として決起、各地で勝利を納めるも島原藩の島原城、天草の富岡城は落とすことができず苦戦を強いられ、島原と天草の領民が合流し廃城だった原城に籠城。それに対して幕府軍は兵糧攻めを断続的に行い、一揆軍の食料や弾薬が尽きたところを松平信綱の軍勢に総攻撃をかけられ原城は落城。領民の被害者数は37,000人で全滅、幕府軍被害者数8000人以上。天草四郎は斬首され長崎でさらし首となりました。
天明の打ちこわし
天明の打ちこわしは、1787年5月、江戸、大阪などの主要都市を中心に30箇所あまりで発生し、翌月には石巻、小田原、宇和島などへ波及した打ちこわしの総称です。「打ちこわし」とは私腹を肥やした商人や悪政を行う代官に対して庶民がまとまって米屋や酒屋、高利貸・役所などで破壊や略奪などをする暴動行為なのですが、天明2年〜8年ころまでエルニーニョ現象による冷害と浅間山の噴火などが原因で、米が不作となり「天明の大飢饉」と呼ばれる大凶作による米価の急上昇が起きていました。民衆の批判対象となったのは当時の江戸幕府老中・田沼意次で、意次は幕府がこれまで行ってきた米を中心とする経済政策を見直し、商品経済の発展によるお金を中心とした貨幣経済中心の政策に力を入れた人物です。意次の政策には幕府の諸経費削減や御手伝普請、株仲間推奨や、御用金令、賃金会所などがありますが、この時代、株仲間の公認に際し特権を得ようと賄賂の贈与が横行し賄賂政治家というイメージが強かったようです。「役人の子はにぎにぎをよくおぼへ」や「役人の骨っぽいのは猪牙にのせ」など風刺されました。意次が失脚するとその後老中となった松平定信により寛政の改革が行われ、打ちこわし再発防止へ取り組みを行ったと云われています。
大塩平八郎の乱
大塩平八郎は1793年に大坂東町奉行の「与力」(司法・警察などの治安維持を担当する役人)を代々務める大塩家に誕生しましたが、幼い頃に両親を亡くし祖父の元で育ち、家柄通り大坂町奉行で与力となりました。平八郎は真面目な性格で職務に精励し、汚職を嫌い、不正の数々を暴き「大坂に大塩あり」と呼ばれるほどの名与力となっていきました。1833年になると天保の大飢饉が発生し多くの人々が飢餓で苦しむこととなりました。大坂町奉行は飢えに苦しむ民衆よりも幕府を優先して大坂が持っている米を江戸へ回送することとなりました。平八郎は民衆が飢餓に苦しんでいるのにそれを見て見ぬ振りをする奉行所や、この期に及んで私腹を肥やそうとする豪商たちをみて嫌気が差し立ち上がることを決意します。平八郎は家財を売却し武器を購入し、門弟の与力や富農等と共に、大坂町奉行や悪徳豪商を相手に反乱計画し実行します。大塩平八郎軍はおよそ300名にも及び、自邸に火を放ち反乱を開始、豪商たちを襲い、奪った金品等を貧しい人々に配りながら進軍。しかし幕府軍の応援により決起から半日後に鎮圧され、大塩平八郎自決しました。大坂市内の5分の1を焼き尽くした反乱でしたが、民衆のために立ち上がった平八郎は英雄となり今も語り継がれています。その後、天保の改革が行われますがますが、壮絶な幕末への扉は目の前にありました。
最後に
如何だったでしょうか?今回は江戸時代を簡単にですがまとめてみました。乱や飢饉、幕末だけをとってみると争いごとが目だって見える江戸時代ですが、歌舞伎や浮世絵などの町人文化の発展や、現在の東京が栄えているきっかけとなる基盤を作り上げた時代ということで、とても素晴らしい時代だったように思えます。徳川家康から始まり、外国との戦争がなく幕末まで250年以上も平和が続いたということは、これからの時代を生きる我々にとって、なにかヒントがあるのかなとも感じます。幕末に関しては明治維新でまとめてありますので是非ご覧になってみてください!それでは最後までご視聴頂きありがとうございました。