はじめに
約3ヶ月ぶりの歴史ネタの投稿となります。今回のテーマは「日本史最大級のミステリー本能寺の変」ということですが、僕が「本能寺の変」を知ったのは、小学校の授業だったと記憶しています。歴史は元々好きでしたが、この事実を知ったときは凄くショックを受けたことを覚えています。何故なら当時の僕は、歴史上の人物の中で一番好きな武将が織田信長だったからです。強くて、格好いいイメージを持つ信長が、家臣に裏切られ自害するなど思ってもいなかったので、漫画ドラゴンボールの中で、クリリンがピッコロ大魔王の手下のタンバリンに殺された時に受けたショックと同じくらいの感覚だったと思います。ドラゴンボール知らない方はすみません。。。あれも相当な出来事でしたので。その後も、テレビの時代劇や、映画で取り上げられる「本能寺の変」を見るたびに、何故なんだろうとか、信長の遺体はどこに行ったの?とか、信長は実は生き延びたとか、実は大名が全員ぐるになったやらせだったとか、様々な説を調べたり、こうして今も記事にしてみたり。もしタイムマシンがあって歴史探検ツアーがあるのなら、「本能寺の変」は間違いなくチケット予約が取れないのだろうとか考えてしまいますが、そんなこと言ったらバチあたっちゃいますかね?さて今回は、最も一般的に伝えられている説で「本能寺の変」をお届けしていこうと思います!
本能寺の変
本能寺の変は1582年6月21日(天正10年6月2日)早朝、織田家家臣だった明智光秀が13,000人の大軍を率いて謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・信長を襲撃した事件です。織田信長は寝込みを襲われ、包囲されたことを知ると、本能寺に火を放つよう家臣に命じ、その後自害したという日本史上最大の謎や多くの説が残っている大事件です。
宿敵を破る
1582年3月11日(天正10年)信長は甲斐国(現山梨県)をへ侵攻し、武田勝頼、信勝親子を天目山に追い詰め自害させ、織田家にとって宿命の敵だった武田氏を滅ぼしました。信長は武田氏との戦いにおいて活躍した信忠に褒美を与え「天下支配の権も譲ろう」との言葉を贈り褒め称えました。天下を見回すと、東北地方においては、伊達氏、最上氏、蘆名氏などの主な大名が織田家に恭順する姿勢を見せていました。関東の後北条氏は同盟傘下、佐竹氏とは外交関係にあり、東日本で織田家に逆らうのは北陸の上杉氏を残すのみとなっていました。
徳川家康を接待中の最中
信長は長年の同盟者である徳川家康に駿河一国を送り、1582年5月15日(天正10年)家康はその御礼をのため、安土城を訪れました。信長に家康の接待役を任されたのは明智光秀です。光秀は15日から17日まで家康を手厚くもてなしたとされている一方で、接待の最中、何らかの理由で光秀に不満を持った信長が、家康の見ている前で顔面に蹴りを入れたという伝説が残されています。信長が怒った理由の説としては、「接待費用を使いすぎ」で怒った説や、光秀が「食事に出した魚が腐ったような臭いがした」からなど様々な説があります。大河ドラマ「どうする家康」で光秀は、家康が信長の命を狙っているのではないかと、信長に耳打ちをして、その後出された食事の魚が臭かったので、家康に毒でも盛ったのかと信長が、光秀にブチ切れているシーンが印象的でした。
中国攻め・秀吉からの出馬要請
西に目を向けると、中国地方では毛利輝元を惣領とする毛利氏との争いが続き、また、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る信長の要求を拒絶する、四国の征服者、長宗我部元親率いる長宗我部氏とも交戦状態となりました。羽柴秀吉は中国攻めを任されており、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めなどで敵を負していました。いよいよ敵の大将輝元がが出陣するとの情報を得た秀吉は信長へ出馬要請を送り、これを受けた信長は出陣を決意し、まずは京都本能寺へ向かうこととなります。
援軍へ向かう
信長は自身の出陣に先んじて、光秀を家康の接待役から解き、秀吉の援軍に向かうように命じました。このとき信長は、細川忠興や池田恒興、高山右近、中川清秀等にも中国地方へ出陣するように命じました。1582年6月1日(天正10年)光秀は13,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣しました。
明智軍の軍議
明智軍13,000人が亀山の東の柴野に勢ぞろいしたのが午後6時頃と云われており、光秀はそこから1町半ほど離れた篠村八幡宮で軍議を開いたと云われています。明智家の重臣である、明智秀満、明智光忠、斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝が集まったところで、謀反のことが告げられ「信長を討果し天下の主となるべき調儀」を練ったとされています。その後、明智の軍勢は京都に向かって進軍を強めるのですが、この時に光秀が言い叫んだとされる有名な言葉「敵は本能寺にあり」は他に「敵は四条本能寺・二条城にあり」や「我が敵は本能寺に在り」などもありますが、実は光秀は特に宣言はしてなかった説もあり、多くの軍勢は、京都に滞在している信長ではなく、同じく京都に滞在していたという徳川家康を信長の命令で伐つのだと思っている者も多かったようです。しかしこの後、歴史的な大事件が起こることとなります。
信長が本能寺に宿泊した理由
秀吉からの要請を受けた信長は何故、小姓衆20、30人のみを率いて安土城から京都の本能寺に宿泊したのでしょうか?信長は上洛の際は本能寺を定宿と決めていましたが、この日、本能寺に宿泊した理由の一つとして三職推任問題(朝廷から武田征伐の戦勝祝賀として信長に、太政大臣、関白、征夷大将軍の三職いずれかに推任しようとする動きがあった)の回答を朝廷にするため。また、法華宗が鉄砲の製造及び流通に深く関わっており、この法華宗の大本山が本能寺であることから、戦に備えて鉄砲を調達するために本能寺に宿泊したという説があります。
信長の最後
1582年6月2日(天正10年)午前4時頃、明智軍3,000は本能寺を完全に包囲しました。「信長公記」によれば信長や小姓は喧噪は下々の者の喧嘩だと思っていました。しかし暫くすると明智軍は、御殿に鉄砲を撃ち放ちました。信長は「さては謀反だな、誰のしわざか?」と森蘭丸に尋ね物見に行かせたところ「明智の軍勢と見受けます」との報告。信長は「やむをえぬ」と一言言い、本能寺が包囲されていることを知ると「余は自ら死を招いたな」と言ったとされています。明智軍勢が攻め込んでくるのに対し御堂に詰めていた御番衆や御殿の小姓衆も一団となって応戦、信長も弓を持って戦いましたが、中間衆24人が討死しました(本能寺の変の最終的な死者数は織田軍57人、明智軍167人とされています)。信長は戦闘の最中「女はくるしからず急罷出よ」と逃げるように指示。すでに御殿には火がかけられていて、近くまで火の手が及んでいたが、信長は殿中の奥深くに篭り、内側から納戸を締めて切腹しました。『信長公記』によればこの討ち入りが終わったのが午前8時前であったとされています。
最後に
さて、「本能寺の変」を簡単ではありますが、まとめてみました。改めて闇深いと言いますか、物凄い歴史なんだなぁと感じます。焼け落ちた本能寺からは信長の首と遺体が発見されておらず、当時、信長は生き延びているという説が暫く流れていたそうで、信長を倒したとされている明智光秀に味方する大名はほとんどいなかったとされています。光秀の謀反の本当の理由は解明されていませんが、怨恨説や四国説、黒幕説など、探れば探るほど沼にはまっていく歴史って本当に奥が深いなと思います。近々カメラやスマートフォンを片手に歴史散策でもして、記事を書きたいと思います(画像はほぼ無料提供のものを使っていますので)。それでは最後までご視聴くださりありがとうございました。またお会いしましょう!